華僑・中国人の投資ノウハウ「チャイナマネーを追え!」【第2章】:第3回

第2章:世界に飛び出すチャイナマネー

第3回

■中国人をタフにした激動の歴史(1)

チャイナマネーを理解するためには、まず「中国」という国と華僑や華人を含む「中国人」について理解する必要があります。

なぜ、中国人は我々日本人よりも投資や商売が上手いのでしょうか。

それには歴史的背景があります。中国人は、我々日本人には想像もできないような激動の歴史をくぐり抜けてきました。ここでは、中国人が投資や商売に長けるに至ったその歴史を少し振り返ってみたいと思います。

中国の歴史は戦乱や殺戮、飢餓の歴史でもあり、それによって生じた流民たちの放浪の歴史でもあります。

中国では、古来より、新しく王朝が興り、その後太平の世が続いても、しばらくすると増加する人口を農業生産が養うことができなくなるのが常でした。それを契機に社会不安が生じ、戦乱、旱かん魃ばつ・水害などの天災や疫病の流行があいまり、さらに食糧が不足して飢餓状態になると、農民は故郷を捨て流民となりました。

こうした混乱に一度陥ると数百万単位の流民が発生し、19世紀以降になると、大飢饉で数千万人単位の死者を出すことも珍しくなかったのです。近いところでは、1958〜1961年の「大躍進」運動による飢饉で餓死者が約3,600万人出ており、また殺戮ということでは、1966年〜1976年の「文化大革命」で3,000万人〜8,000万人が集団的なリンチや自殺などで亡くなったとも言われています。

こうした凄まじい歴史を生き抜いてきた中国人は、我々日本人とはサバイバル本能というか、逞しさが違います。国家などは信頼するに値せず、信じられるものは肉親や仲間、そして金であるという考えに至ったとしても何ら不思議ではありません。

そして、中国人のタフさやしたたかさを形成した流浪の歴史に関しては、いくつか象徴的な例があります。

まずは、殷王朝の滅亡です。

殷人は元々、自分達の王朝を「商」と呼んでいました。紀元前11世紀頃、周によって殷が滅ぼされ、亡国の民となった殷人は散り散りになって流浪の日々を送らざるを得ませんでしたが、その後も互いに連絡をとり合いつつ、各地を渡り歩いて物を売ることを業とし、逞しく生き抜きました。店舗を持たず、各地を渡り歩いて物を売っていた殷人を、人々が「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれました。これが「商売」「商人」の語源です。

その次は、「華僑」の誕生です。

19世紀以降、社会が乱れて困窮した中国南部の農民が、東南アジアに逃れたほか、労働力が必要となっていた西欧列強が支配する植民地に奴隷に近い苦力(クーリー)という形で大量に出て行きました。華僑は、流れ着いたその地で社会の底辺からスタートし、コツコツと資金を貯め、やがて何らかのビジネスを始めて徐々に頭角を現していきます。

華僑は、移民した当初、一日も早く金を儲けて中国に帰る、あるいは故郷に錦を飾ろうとし、朝から晩まで金儲けのことを考えていました。このことが「華僑は金儲けが上手」と言われる彼らの特性を生んだと言えます。

そうした華僑の想いを象徴的に示すのが、彼らが「陶(とう)」「朱(しゆ)」「公(こう)」を商売の神様として仰いでいることです。陶朱公は、華僑の放浪の歴史を体現している存在ですが、元はと言えば、春秋時代の越の政治家・軍人である范蠡です。彼は越王・勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者です。この越と呉の長きに渡る抗争は臥薪嘗胆のエピソードで有名なので、ご存知の方も多いかと思います。

最終的に呉を滅ぼし、有頂天になっている越王・勾践を見て、范蠡は「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵かくる。(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)」と考え、身の危険を感じて密かに越を脱出し、流浪の民となるのです。

その後范蠡は、斉の国で「鴟(し)」「夷(い)」「子(し)」「皮(ひ)」と名前を変えて商売を行い、巨万の富を築き上げますが、斉が范蠡を宰相にしたいと迎えに来たため、名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産をすべて他人に分け与えて斉の国を去ります。そして、今度は宋の国の定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗ります。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得、老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言われています。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となりました。

危機を脱して流浪の身から何度でも立ち上がり、異郷の地でも成功していく陶朱公を華僑たちは自分達の姿に重ね合わせ、商売の神様としたのです。

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